今こそ憲法

数年前から書き続けてきた憲法に関するエッセイを再開したいと思っています。

そこで、とりあえず、過去のものを掲載します。

新しいものを上に重ねる都合上、順番が下からになりますが、あしからずご了承ください。

今こそ憲法 024

2023/06/11

 あるサイトの憲法の各条文の解説に、「憲法31条は、国家権力を利用して都合の悪い人に刑罰を科すことを防ぐための、重要な条文です」とありました。

 憲法そのものが、権力に対する国民による統制を補償している力ですから、まさにこの条文は憲法を体現している条文なのかも知れません。

 戦前は憲法そのものが天皇の絶対権力を保障したものでしたから、第23条に「日本臣民ハ法律ニ依ルニ非スシテ逮捕監禁審問処罰ヲ受クルコトナシ」と規定されてはいても、実際には権力に都合の悪い人を次から次に弾圧する「治安維持法」が作られ、特高警察の恣意的な判断で多くの人が断罪されました。

 そんな暗黒の社会を二度と再現させまいと、「治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟」がいろいろな取組を行っています。

 昨年は、上越市でも治安維持法の犠牲となった伊藤千代子の生涯を学ぶ講演会や映画の上映が行われました。今年は、戦争と貧困、社会の不平等をなくしたいと、伊藤千代子と同時代に起ち上がった新潟県が生んだ先覚者〝原菊枝〟の生涯を、映画『わが青春つきるとも」の原作者藤田廣登氏が講演しました。

 日ごとにきな臭くなっている今の情勢にあって、絶対に戦争をする国にしないため、この条文を本質的に守ることがますます大事になってきていると思います。

 

第30条 何人も,法律の定める手続によらなければ,その生命若しくは自由を奪はれ,又はその他の刑罰を科せられない。

今こそ憲法 023

2023/01/23

 そろそろ確定申告の時期になりました。

 私のところにも源泉徴収票などが届き、資料をまとめる準備に入らなくてはと思っているところです。

 さて、憲法では「納税の義務」が明示されています。憲法はもともと暴走する運命にある権力者を国民の立場から規制する役割を果たしているので、国民に課す義務は最小限になっており、「勤労」と「教育」、そして「納税」の三つだけが国民の義務とされています。このうち、勤労と教育は権利とも言えますので、この納税だけが国民に課されている義務とも言えるでしょう。

 ところが、それだけ重要な条項である割には「さらっ」と書かれてあり。細かいことはすべて法律に委ねているようです。

 しかも、この条文にはいろいろな意味があって、「納税は国民の意思に基づいて行う義務である」ということや、「法律に基づかなければ納税の義務を負わない」ということもあるようです。ですから、「税」というものに関する深い分析も必要であるとも思います。

 そこで、今、一番問題になっている「消費税」について考えるだけでも、いろいろなことが考えられます。

 まず、消費税の納税者(納税義務者)はだれなのか、という問題です。「商品を買うと、代金に加えて消費税分を支払うことになるので、税を負担しているのはその商品を買った消費者でしょう」と思いがちですが、実は納税義務者は年末に実際に税務署に消費税を納める販売者です。商品の売買の際には、税のやりとりはありません。私たちが税だと思って払っている消費税分と称するお金は、実は商品代金の一部であって、それはある意味で交渉で決まるというのが、ホントのところです。

 ですから、消費税の免税業者に対して、「消費者から預かった消費税を納税せずにネコババしている」というのは全くの誤解です。

 実際、消費税の免税御者は売上が1,000万円以下ですから、すべて小規模の事業者です。経済の力関係の中で、消費税分だけ価格を上乗せできている例はほとんどありません。仮にそれでもむりやり売上に応じて消費税分を納税することになれば、結局は自腹を切って納税することになりますから、多くは廃業せざるを得なくなるでしょう。

 そして、そのことが現実になろうとしているのが、「インボイス」制度です。

 詳しくは、こちらを見ていただきたいと思いますが、まったくの国民いじめの非道なやり口です。

 なお、税金はどのように集めるのがいいのかといったら、当たり前ですが、「能力に応じて」ということだと思います。そのためには、あくまでも所得に応じて、つまり、収入のある人から直接集めるのが原則ではないでしょうか。ところが、この消費税は間接税の最たるもので、支払能力に関係なく、だれからでも情け容赦なく取り立てる仕組みです。こんな非道な税は一刻も早くやめて、累進課税を中心とした所得税中心にすべきです。

 

第30条 国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負ふ。

今こそ憲法 022

2023/01/10

 前回に引き続いて、29条の財産権についてです。

 前回は、財産権が単純に尊重されすぎると、大きな財産を持つ人が暴走してしまう点について感じるままに書きましたが、少々脇道にそれてしまったようです。

 そもそも憲法は、国家権力を国民の立場から規制するためのものですから、財産権は国民の財産を国家権力からいかに守るかを主眼としています。その意味でこの条項はとても大切です。加えて、それがいまだ完全に活かされていないことを再認識し、確実に遵守させることが大切です。

 具体的に言うと、例えば福島第一原発事故では、多くの人が土地や家をいわれなく奪われ、いまだに戻ることができていません。「帰還」できた人にとっても、決して元の通りの生活に戻れたわけではありません。国の政策として進められた原発のために、大きな財産を故なく奪われて、その補償はいまだにまったく不十分なままであるというのが実態です。

 一昨年のオリンピックの際には、新国立競技場の建設のために、長年住んでいたところを生われた人も話題になりました。こうした人たちの財産も故なく奪われ、正当な補償がされてはいないというのが実態ではないでしょうか。

 国は、あれこれと理屈をつけてこうした人たちへの補償をネグレクトしたり無視したりしています。また、その原因を取り除こうとはせずに、同じことを繰り返すことに躊躇しません。

 このような国民無視の政治を考えるにつけ、今こそ憲法をしっかりと守らせること、暮らしに活かすことの大切さを感じます。

今こそ憲法 021

2023/01/09

 国民の財産権のことを考えると、基本的にはそれを守りながら、正当な補償を条件として私有財産を公共のために収用することを認めるかどうかなどのことが議論の的になるようです。

 この前提になっている個人の財産に対する権利を絶対的なものとして認めるかどうかは、ある意味で近代民主主義の基本的要素なのかも知れません。素人の私がこのようなことを云々するのははばかられますが、古代から中世、近世に至るまでは、個人が尊重されず、その財産権も認められてこなかったことを考えると、民主主義の大きな要素なのではないのかなという思いです。

 個人が尊重され、その財産権が完全に保障されることは、単純に考えるととても重要なことですから、「当たり前」なのかも知れません。ですから、憲法がその条文で「侵してはならない」と記述しているのもうなずけます。

 また、明治憲法にはなかった「正当な補償」が付け加えられたこともまことにうなづけます。

 ただ、財産というのは、ときとして暴力を伴う大きな力を発揮します。大きな財産を持っていると、それが権力にも変化しますし、他人を抑圧する武器にもなります。つまり、大きな財産を持つ人と持たない人の間には大きな差ができるだけでなく、さらにその差を広げてしまうようなことにもつながり、結局は弱肉強食の殺伐とした社会にもなりかねません。

 これは、財産権を認めると同時に、その行使にはかなりの規制も必要であることを示しているのではないかと思うのです。

 個人が築いた財産だけで考えるとことは簡単ですが、相続も考えると、「生まれながらに大きな財産持ち」という人も存在することになりますから、ことは面倒です。「人はみな平等である」はずなのに、実際はそうなっていないことの現況は、この財産権にある野かも知れません。

 また、財産権の対象になっているその財産ですが、憲法では個人の生活手段たる財産であろうが生産手段になっている財産だろうが、区別はしていません。そうなると、結局は生産手段を独占している人と持っていない人との間に階級的格差が生じ、資本主義社会ならではの格差社会を生み出すことになります。

 こんなことを考えていくと、現憲法にもかなり限界があるのではないかという気もしますが、細かいことを含めてまだまだ勉強不足で、解明はできません。引き続き考えていきたいと思います。

 

大日本帝国憲法第27条

日本臣民ハ其ノ所有権ヲ侵サルルコトナシ

② 公益ノ為必要ナル処分ハ法律ノ定ムル所ニ依ル

 

第29条 財産権は、これを侵してはならない。

② 財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。

③ 私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる。

今こそ憲法 020

2023/01/06

 資本主義の最も悪い点というか、社会の矛盾を生み出す根本的な要因は、生産手段を一部の人が独占していることにあります。(そこで、その矛盾を解決するには、生産手段を社会化する社会主義の体制にすることが必要ですが、そのことは別の機会に述べたいと思います、)

 生産手段、つまり事業を行うための土地、建物、機械や設備、そして知的財産など、多くの人が関わる有形無形のモノは、それを使って価値を生み出す人、つまり働いている人のものではなく、資本家といわれる〝所有者〟、つまり働かせている人のものであることがほとんどです。

 中には、「社員あっての会社だ」とか、「従業員こそ一番の財産だ」とかの甘い言葉で、「生産手段は資本家の独占物である」ことをごまかしてきた歴史がありますが、最近では逆に開き直ったのか、「会社は誰のモノか、株主のモノだ」てなことを強調する論調もでてきています。これは事実としてまったく正しいので、もっともっと強調して、「結局、資本主義でいることで矛盾はどんどんひろがってくるのだ」ということが多くの人の常識になってほしいものだと思っていますが、そのことはちょっとおきましょう。

 とにかく、事業を行うための土地、建物、機械や設備、知的財産などは、それらを所有している資本家(株主)のものですから、そこで働く人は基本的に何も持っておらず、資本家に雇われて働くしかありません。つまり、労働者=勤労者は、働く先がなければ、飢えてしまうしかありませんので、そこに「持っている人」と「持たざる人」の大きな違いがあります。

 どの職場にも、資本家(生産手段の所有者、つまり株主、多くの場合経営者)と労働者(勤労者)がいますが、その二つには基本的な差があり、そのままでは決して対等な立場になることができない宿命があります。(あくまでも資本主義社会の場合です。)

 しかし、それでは労働者は無権利でひどい状態におかれることになります。実際、戦前はそうでした。

 そこで、憲法は労働者が資本家に対抗して対等な立場に(近い状態で)交渉したり、要求を実現させるために行動したりする基本的な権利を認めているというのが、第28条です。

 この基本的な条項にもとづいて、労働基本法や労働組合法、労働安全衛生法などの労働法規が整備されてきましたが、まだまだ不十分です。おまけに、橋本内閣、小泉内閣の時代から加速した〝規制緩和〟のたくらみのもとで、それまで改善されてきた労働法規がどんどん改悪され、無権利状態の労働者が増えてきています。その最たる例がいわゆる非正規労働者です。

 憲法にはこうした労働者の権利を守る条項が意外に簡素に書かれており、具体的には法令で整備することが期待されていると思われるだけに、昨今の労働法規の改悪を少なくとも元に戻し、さらに労働者の権利をしっかり守っていく取組が求められていると思います。

 

第28条 勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利は,これを保障する。

今こそ憲法 019

2019/01/01

 人は、「人の役に立ちたい」「ともに力を合わせて価値あるものを作り出したい」と願う生き物ではないでしょうか。つまり、本来、人間は働くことを喜びに感じる存在だと思うのです。

 ところが、今のこの日本の社会では、一部の人を除いて、多くの人にとって働くことはそれぞれの喜びとはいえないような状況です。働いても働いても暮らしは楽にならず、中には働きすぎて死んでしまう人すらいるではありませんか。これは、現在日本社会のゆがみを表しているものであると思います。

 それぞれの人が、それぞれの思いを実現できるようにやいがいのある仕事ができ、しかもその仕事に対して十分な報酬が保証されるような世の中になれば、本来の人間の性質の通り、働くことが本当の喜びになるのだと思います。

 憲法は27条で、勤労に関して、「義務」としてだけでなく、「権利」としても言及していますが、まさにそのことを指し示している、誠に先見性のある法典であると思います。

 さて、働くことが権利でもあると実感できるようにするには、働くことに関しての条件整備がきちんとなされていなくてはなりません。そのことを指摘しているのが2項であり、実際には「労働基準法」など、各種の労働法制が制定されています。ところが、せっかく憲法で指示され、長い時間をかけて整備されてきた労働法制が、前世紀末から次々に壊されてきています。労働者派遣法がその典型です。そして、今回の「働かせ方大改悪」です。これらは、働くことが自己実現の喜びになるどころか、働くことを苦痛にさせ、生きていく権利すら奪うような内容です。これでは憲法の趣旨にも多くの人間の思いにも反します。一刻も早く労働法制を元に戻して、働く人を守らなくてはなりません。

 

第27条 すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。

2 賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める。

3 児童は、これを酷使してはならない。

今こそ憲法 018

2018/12/29

 長い間、私学助成運動に携わってきましたが、その法的根拠になるのが、憲法26条の、「教育の機会均等」です。ここでいう能力というのは、その人の持てる力を完全に発揮できるための内的力であって、決して「経済的力量」ではないはずです。つまり、「お金があれば、それに応じて高等教育を受けることができる」ということではありません。ところが、実際にはそうなっている面が大きいのではないでしょうか。これでは憲法が泣きます。ましてや、教育の権利主体は子どもです。その子どもが、保護者の経済的な条件で教育を受ける権利を奪われたり、ゆえのない大きな負担を強いられたりすることは許されません。

 2項では、義務教育の無償を宣言しています。ところがこれも、実際には「明らかな授業料は徴収しない」というだけで、保護者の負担は小さくありません。各種教材費や給食費を含めて、完全に無償にすることが大切です。

 

第26条 すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。

2 すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。

今こそ憲法 017

2018/12/27

 何度も似たようなことを書きますが、憲法が保障しているいろいろな権利は、それを実質的に守ることのできる保証があってこそ、活きてきます。25条の生存権も、これまでの長い運動や闘いの中で、実質的な制度としてのセイフティネットが整備されてきました。そしてその制度も、常に向上をめざす不断の運動がなければ政府によって切り下げられてしまいます。2項では国の責任としての社会保障の向上や増進について書かれているにもかかわらず、です。

 今、9条をはじめとして憲法そのものが危機に瀕していますが、社会保障を国の責任とした憲法の精神も、かつてなく危機的な状況です。これまで圧程度向上が図られてきた社会保障の各制度が、安倍政権の下で次々に破壊されようとしています。こうしたことを考えると、まさに戦後最悪の内閣であることは明瞭です。

 一刻も早く退陣させましょう。

 

第25条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。

2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

今こそ憲法 016

2018/12/26

 結婚にもいろいろな形があります。婚姻届を出すのか、誰とパートナーになるのか、結婚式をするのか、などを考えるだけでも形はいろいろです。

 例をあげると、 「私は同性のパートナーと暮らしています。同性婚は、欧米などでは合法化されて いる国もありますが、日本ではまだ法的には認められていません。今の法律婚前提の結婚制度とは別に、同性カップルにも認められる新しいパートナーシップ法につい て、仲間と勉強会を開催しています。 」というカップルや、「私は、婚姻届は出すけれど結婚式はあげない予定です。セレモニー的なこ とは余り好きではないし、結婚式費用にお金を使うよりも、その分をこれか らの生活のための費用に当てたいと思っています。 」というカップル、「婚姻届は出さないで、ふたりで契約書を作成しました。苗字を変えることや、 戸籍制度に違和感があります。今の制度や法律が、自分たちのニーズに合わな ければ、無理に婚姻届を出さなくてもいいと思い、このかたちを選びました。 」というカップルなど、カップルの数ほど特色があるともいえそうです。

 さて、憲法ではどうでしょうか。24条の解釈にはいろいろあるようですが、本質的にはどんな形の結婚であっても、そのカップルが社会的に認められ、守られること、カップルの両人が幸せに暮らしていけることを保証しているように思えます。もちろん、LGBTにとっても、同様です。「婚姻は、両性の合意のみに基づいて」とありますから、かならずしも異性婚のみを規定しているとはいえません。同性のカップルも、合意のみで成立するとしていいのではないかと思います。もっとも、その後には「夫婦が~~」とありますので、「夫夫」などの場合には言語として少々合わないものもありますが、この点のみ拡大解釈すれば、基本的には「同等の権利を有することを基本として、相互の協力により」という基本的なところはまさにその通りに通用します。

 そして、第2項にある法律制定への指示は、「カップルや家族の権利を国はしっかり守りなさい」としているわけで、この精神に則って、行政の役割を的確に果たすことが必要です。

 例えば、「結婚をしていない男女間の子(婚外子)の遺産相続分を、結婚した男女間の子の半分とした、 民法の相続格差規定」について、最高裁大法廷は 2013 年 9 月 4 日の決定で、「法の下の平等」を 保護した憲法 14 条に違反し、違憲・無効とする初判断を示しましたが、「遅いぞ、まったく」という感じです。

 そもそも、結婚を異性による法律婚のみとして、他のあり方を排除するような民法の規定は、憲法が制定されてすぐに改正されるべきものではなかったでしょうか。

 さて、最近は、結婚するに当たって契約書を取り交わすというのが広がっているとのことです。諸外国ではかなり普及しているとのことで、その後のトラブルを避ける意味でも有効だとのことです。具体的にどんなものなのか、実際に契約書を取り交わしたカップルにとってどんな効果があるのか、ぜひ実態を知りたいものです。

 

第24条 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。

2 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

今こそ憲法 015

2018/12/25

 学問の自由を考えるときには、多くは大学における学術研究の自由が話題になります。

 その際、問題になるのはもっぱら国家権力による直接的介入であり、研究の弾圧とも言うべき研究内容への妨害などが話題なるのではないでしょうか。

 このような直接的介入は、その違法性・不当性がわかりやすく、だれもが憤慨することになりますが、現代ではこのような直接的介入ではなく、じわじわと真綿で首を絞めるような、しかも確実に研究内容を支配するようなやり方が行われているようです。そのやり方とは、ズバリ研究予算や学費など、経済的なやり方です。

 防衛省は、大学などに研究を委託し資金を提供する「安全保障技術研究推進制度」を2015年度から導入していますが、これなどは典型的で、つまり「研究費がほしければ、悪魔に魂を売れ」と言っているようなものです。研究内容に関わりなく、最低限保証されるべき大学の研究費が、必要額の数分の一に削られていることが、根本の問題です。

 つまり、昨日書いた移転の自由や居住の自由と同じように、「あからさまに禁止はしませんよ。でも自由に研究するのなら自己資金でね」という形で圧力を加えているとしか思えません。これでは憲法が泣きます。

 さて、学問の自由は高校以下の教育の自由を含むのかという点では議論があります。

 最高裁は旭川学力テスト事件において、まず教育の自由という観点から「子どもが自由かつ独立の人格として成長することを妨げるような国家的介入、例えば、誤った知識や一方的な観念を子どもに植えつけるような内容の教育を施すことを強制するようなことは、憲法二六条、一三条の規定上からも許されない」とし、教育の自由は学問の自由に「必ずしもこれに含まれるものではない」としていたポポロ事件判決を実質的に判例変更しています。また、教師の教育の自由については「専ら自由な学問的探求と勉学を旨とする大学教育に比してむしろ知識の伝達と能力の開発を主とする普通教育の場においても、例えば教師が公権力によって特定の意見のみを教授することを強制されないという意味において、また、子どもの教育が教師と子どもとの間の直接の人格的接触を通じ、その個性に応じて行われなければならないという本質的要請に照らし、教授の具体的内容及び方法につきある程度自由な裁量が認められなければならない」として教師の教育の自由を基本的に認めています。

 この視点で見るならば、「学習指導要領」の違法性・不当性は明らかです。ましてや、現在のように、指導要領からちょっとでもはみ出ると処分の対象になるなどという事態はとんでもない憲法違反であることは明らかです。ぜひ、国による教育の自由への弾圧を跳ね返していきたいものです。

第23条 学問の自由は、これを保障する。

今こそ憲法 014

2018/12/24

 新幹線の開業に伴って、並行するとされる在来線がJRから分離され、どこもたいへんな経営難になっています。また、JR北海道なども経営難で、次々に路線を廃止したり、安全確保から手抜きをしたりと、たいへんな状況です。その一方で、JR東や東海などは首都圏を中心に大儲けし、まるっきり利益のみを追求する営利企業になってしまっています。

 このことは、国民が自由に国内を移動できる権利を間接的に奪っていることとも言えます。

 憲法で保障された移転の自由は、単に名目的に「自由ですよ。禁止はしませんよ」というだけでなく、誰もが安全に、安心して、安価に移動できることが保証されなければ、半分意味を失います。

 居住や職業選択も同様です。「どこに住んでも自由ですよ。職業も昔のように世襲なんかじゃありませんよ。ただし、何をするにも自己責任でお願いね。」というのでは、お金のない人は実質的に不自由です。本当の意味で自由を保障するには、だれもが経済的にも自由を謳歌できるようにすること、つまり、最低限の所得が保障されたり、安い費用で居住できること、差別無くやりがいある職業に就けることなどを実現しないと、絵に描いた理想だけになってしまいます。本当の意味での自由を実現できるようにしたいと思います。

 

第22条 何人も,公共の福祉に反しない限り,居住,移転及び職業選択の自由を有する。

   2 何人も,外国に移住し,又は国籍を離脱する自由を侵されない。

今こそ憲法 013

2018/09/24

 まったく、世の中は金と権力のある勢力の思うがままで、せっかく憲法で保障されていても「どこ吹く風」とばかりに妨害されるのが、集会や結社の自由です。戦前は、治安維持法などの悪法で直接集会や結社を禁じるという暴力的な手段が執られていましたが、さすがに現在の憲法の下ではあからさまな制限や妨害はしにくいと見えて、資本主義の原理を使った姑息な手段をとっています。

 つまり、自由に集会をやろうと思っても、費用を捻出できないと実質的にできなかったり、社畜として企業に従属させることで行動のみならず思想まで支配したりするという形です。

 いくら憲法で保障されているとは言っても、思い立ったらすぐにできないとすれば、絵に描いた餅ですから、自由を制限したい勢力にとっては実に都合のよい話です。

 そうしたことを考えると、憲法は理念を語るのみでなく、その理念を実現させるために必要な手段を確保する施策まで言及してほしいところです。

 もっとも、それは、憲法を生かすべき一人一人の国民の仕事なのでしょうか。まさに、「憲法を暮らしの中に」ということですね。

 憲法の理念を真に実現するには、その自由が保障されている一人一人の国民の不断の努力によって実質を伴うように行政を変えること、例えば気軽に集会ができるように公共施設をいたるところに整えさせたり、労働契約はあくまでも労働力の提供のみに限って人格まで支配することを厳禁することを法律に明記させたりすることが必要なのでしょう。

 とはいっても、今のような閉塞的な状況の中では、果たしてそれができるのかどうか、極めて不安になります。金と権力を独占している勢力(安倍晋三をはじめとする勢力のことです)は、呼吸するように嘘をつき、平気で人を陥れ、恫喝し、諦観させようとしています。これでは、せっかくの憲法も、その保証している権利の内容は想像上の産物になってしまいかねません。

 おっと、愚痴ばかりになってしまいました。愚痴を言っている暇があったら、憲法の理念に実質を付け加えられるように、多くの国民の声をまとめあげるべきですね。いくら金と権力を独占していても、多くの国民が思いをともにして声を上げれば、その鉄壁とも思える弾圧の壁は打ち崩すことができるのですから。

 

第21条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。

   2 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

今こそ憲法 012

2018/09/14

 信教の自由とはあまり関係ないのですが、人の言葉のごく一部だけを取り上げて、解釈を歪曲して攻撃するというのは、いろいろなところで行われています。

 例えば、「マルクスは『宗教は民衆のアヘンだ』と言って宗教を否定した。だから、共産主義は宗教とは相容れず、共産党が政権を取ると宗教は弾圧される」などというものです。

 こういう論法を「牽強付会」とでもいうのでしょうか。とんでもない言いがかりとしか言えません。

 マルクスが宗教に関して述べたのは、25歳の時の論文「ヘーゲル法哲学批判・序説」のなかです。そこで述べたのは次の通りです。

「宗教上の不幸は、一つには現実の不幸の表現であり、一つには現実の不幸にたいする抗議である。宗教は、なやめるもののため息であり、心なき世界の心情であるとともに精神なき状態の精神である。それは民衆のアヘンである」

 この記述をちゃんと読めば、マルクスがどのような意味で述べたのかわかると思います。決して宗教を否定するような文面ではありません。

 また、アヘンを単純に毒薬という意味で使っているのでもありません。

 そもそも、アヘンは乱用すれば有害ですが、アヘンの成分から作られるモルヒネは、鎮痛剤として使われています。

 アヘンという言葉には、宗教に対するマルクスの批判もこめられています。宗教は民衆にあきらめとなぐさめを説き、現実の不幸を改革するために立ち上がるのを妨げている、という意味です。ここには、当時のヨーロッパで宗教が果たしていた歴史的な事情が反映しています。キリスト教は、国王権力と支えあう関係になって、専制支配のもとで苦悩する民衆に忍従を説いていました。マルクスはそうした宗教の役割を批判したのです。

 ヨーロッパに限らず、日本などアジアでも、宗教は時として権力と結びついて民衆を苦しめる役割を果たしてきた歴史があります。そうした役割を果たしてきた側面は、批判の対象になるのは当たり前です。

 しかし、そのことと、一人一人の国民が自由に宗教を信じ、自分の信じる宗教を大切にすることは、権利として保障されるべきです。マルクスはそのことも含めて述べていますので、日本国憲法を100年ほど先取りしていたとも言えるではないでしょうか。

 いずれにしても、国民が自由に宗教を信じたり、あるいは信じなかったりする自由は、とことん保証されなくてなりません。同時に、宗教が政治に介入したり、政治が宗教を利用したりすることは許されません。そうした意味で、憲法20条の規定は、完全無欠の条文なのではないかと思います。もちろん、日本共産党の考えともぴったり一致しています。

 ちなみに、私は無宗教ですので、宗教的な哲学の持ち合わせはありませんが、それは私個人の話であって、他の人が持っている宗教的哲学に対しては、キチンと尊重し、仮に弾圧されるようなことがあれば、それがどんな宗教であっても弾圧者としっかりと闘い、その宗教を守ります。

 

第20条 信教の自由は,何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も,国から特権を受け,又は政治上の権力を行使してはならない。

2 何人も,宗教上の行為,祝典,儀式又は行事に参加することを強制されない。

3 国及びその機関は,宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

今こそ憲法 011

2018/09/13

 思想や良心に関しては、憲法で保障されているとは言うものの、実際には行政当局や勤め先から監視され、自由ではないというのが皆さんの実感だと思います。

 これは、民主主義が日本に根付いていない証拠なのかなとも思います。ヨーロッパでは、中世の暗黒社会から脱皮する際に、国民自らが自由を求めて戦い、勝ち取ったという歴史があり、そのことから、常に自分たちの力で自由を守っていこうという気概があるのでしょうか、民主主義が市井に根付いているのではないかという気がします。(もっとも、私自身がヨーロッパで実際に見聞きしたわけではありません。念のため)

 そのことと合わせて気になるのは、権力を持った勢力からの弾圧や監視が高じて、普通の市民である隣近所や友人間でも互いに気にしたり気兼ねしたりという風潮があることです。

 だれしも、自分らしく生きたい、自分の考えを自由に持ち、自分なりの価値観を持って生きたいという思いがあるはず。それが、人に気兼ねすることなく、しかもそれぞれが互いに尊重しあえる、そんな世の中にしていかなくちゃと思うのですが、まだまだ道は遠いのでしょうか。

 しかし、普通の市民間で互いに気にしたり気兼ねしあったりするのは、例えば国政を堂々と批判するような考えを持った人は行政権力や勤め先などから不利益を受けるという実態があり、そんなのに巻き込まれたくないという、自己防衛からの姿勢かと思いますので、憲法で保障された思想信条の自由が、行政でも勤め先でも本当の意味で積極的に守られるようになれば、個人間の気兼ねなどは無くなるのかもしれません。

 そんなことを考えると、憲法をしっかり守って暮らしに生かすには、やはり安倍政権にご退場願うほかはないということになりますね。

第19条 思想及び良心の自由は,これを侵してはならない。

今こそ憲法 010

2018/09 /11

 このところ、多忙にまぎれてこのブログもとんとご無沙汰でした。

 本来、定期的に更新し、継続的に書き込むことで、初めて意味があるというのに、こんな状態ではどうにもなりませんね。

 反省しておりますが、「反省だけなら○○にもできる!」と叱られそうです。

 さて、憲法を逐条的に見てきました。ここからはいよいよ基本的人権を確実に保障する具体的条文です。

 第18条は、身体的自由権である奴隷的拘束・苦役からの自由についての規定です。

 奴隷のような扱いをされたり、苦痛を感じるような仕事をさせられたりすることは誰も望みませんが、「日本ではそんな目に合わせられることはありません。お国が許しません。」と宣言しているのが、この18条であるはずです。

 ところが、実際にはどうでしょうか。「職場に憲法なし」と言われるような状態が近年ますます激しくなってきており、牛丼屋のワンオペ、名ばかり管理職、派遣社員いじめなど、まるで人が奴隷のように扱われる現実は後を絶ちません。まして、国民一人ひとりを守るべき国自らが、守るどころかワーキングプアを生み出しているのですから、救いがありません。

 それに加えて、安全保障関連法、いわゆる戦争法の強行で、従来政府自らが「『意に反する苦役』に当たるので禁じられている」としてきた徴兵制までもが、現実味を帯びてきました。アメリカではすでに「経済的徴兵制」という形で、低収入の家庭に育ってきた子どもは軍隊に志願するしかないというところに追い込まれていると言いますが、日本でも他人事ではありません。

 もっとも、そんな恐ろしい状況になってしまっている原因は、ある意味ではっきりしています。安倍自公政権の暴走が原因なのですから、まず退陣してもらって、野党連合でしっかりと政権運営をしていけば、とりあえず万事解決です。実にことは簡単です。来年の統一地方選と参院選で勝てばいいんですから、明るくいきましょう。

第18条 何人も,いかなる奴隷的拘束も受けない。又,犯罪に因る処罰の場合を除いては,その意に反する苦役に服させられない。

今こそ憲法 009

2018/07/04

 ご無沙汰しておりました。

 選挙とその後片付けなどでばたばたしておりました。

 憲法エッセイを再開したいと思います。

 第17条は、公務員の不法行為に関する規定です。第15条で、公務員の任務について規定していますので、本来は不法行為を行うような人は公務員にふさわしくなく、仮に不法行為を行ったらすぐに罷免などの処分をすべきですが、罷免しても被害を受けた国民が救済されるわけではないので、その救済に関して規定されているということだと思います。

 この条文は、国家賠償法の憲法上の根拠にもなっており、洪水について国の河川管理責任を問うた大東水害訴訟や多摩川水害訴訟、空港の騒音公害に関する大阪国際空港訴訟・厚木基地訴訟、鉄道や道路の騒音等に関する新幹線公害訴訟・国道43号公害訴訟など、多くの訴訟事件で争われました。

 国がやることであっても、不法行為になることはあり得ますので(いや、現状では政権のやることは不法行為の方が多いのではないかとすら言えますので)、その損害については、十分にかつ迅速に救済されなくてはなりません。いちいち裁判で何年も争うのではなく、国民の立場に立ってすぐに救済されるようにすべきではないでしょうか。

 さて、そこで問題になるのは、明らかに不法行為を行ったはずの公務員、それも超高級官僚が断罪されず不起訴になり、損害も救済されないという例があります。(下の記事、7/3しんぶん赤旗)

 ここで損害を受けたのは、全国民であり、国民の政治への信頼というとてつもなく大事なことがないがしろにされるという重大な損害が生じました。この賠償には、政権がすぐに退陣するという措置が必要であると思いますが、みなさんはどうお感じになりますでしょうか。

第17条 何人も、公務員の不法行為により、損害を受けたときは、法律の定めるところにより、国又は公共団体に、その賠償を求めることができる。

今こそ憲法 008

2018/05/16

 第16条は、請願権に関する規定です。

 請願は、国民による政治参加が認められず、政治上の言論の自由が確立されていなかった時代には、民情を為政者に訴えあるいは権利の救済を求めるための、ほとんど唯一の手段であったことのことで、明治憲法にも制限付きながら規定があります。

 言ってみれば、請願に関する条文は、かなりの歴史のある条文と言うことになるのでしょうか。

 請願権は、公の機関に対して希望を陳述する権利であり、請願を受けた機関は誠実にそれを処理する義務(請願法第5条)を負うことになりますが、請願内容に応じた措置をとるべき義務を負うことはなく何らかの法律上の効果を派生させるものではありません。公の意思は公の手続で決定されるもので一国民の意思で決定すべきものではないからとされています。

 至極当然のことですが、もう少し深く考えると、請願がより大きな効果を示すようにするためには、一国民の請願ではなく、多数の国民の意思であることを示す必要があると言うことになります。一般的には、国会等に向けての請願は、多数の国民の署名などを添えて提出する例が多いと思いますが、その署名をより多数にすることで、より多くの国民の意思であることを示し、実質的に国会等での議決に間接的に影響を与えるようにすることが必要であるということになります。

 毎年取り組まれている「私学助成の増額を求める請願署名運動」は、1000万筆を超える署名を添えて請願を繰り返してきました。本来は、こうした請願がなくても私学助成は増額されるべきですが、それはともかくとして、こうした大きな運動が背景になって、私学助成が拡充されてきたという歴史があります。

 それだけ、請願権というのは大事だと言うことですね。

 さて、普通地方公共団体(都道府県や市区町村)の議会に請願しようとする際には、地方自治法第124条の規定で、「議員の紹介により請願書を提出しなければならない」とされています。

 この違いは、なんなのでしょうか。国への請願とは性質が異なるのでしょうか。勉強不足でわかりませんが、この規定が、自治体議会への請願をやりにくくしているとすれば、ただすべき問題ではないでしょうか。

 

第16条 何人も、損害の救済、公務員の罷免、法律、命令又は規則の制定、廃止又は改正その他の事項に関し、平穏に請願する権利を有し、何人も、かかる請願をしたためにいかなる差別待遇も受けない。

今こそ憲法 007

2018/05/14

 第15条は、公務員のあり方や選び方を規定しています。一つの条文にすぎませんが、内容はかなり広い範囲を規定しています。

 まず、公務員を選んだりやめさせたりすることぶことは国民の権利であることを宣言していますが、これは、それまでの(戦前までの)公務員がいわゆる「お役人様」であって、時の支配者が恣意的に選び手足として使っていたこと、国民を支配し弾圧する役割であったことの反省として、当然とも思われることを明確に宣言したということだと思います。同様に、第2項の「全体の奉仕者」という言及も、国民すべてに奉仕するのが仕事であることを明確にしています。

 ところが、実際には、いわゆる“忖度”で、一部の高級公務員、つまり首相にだけ奉仕する公務員が後を絶ちません。この間、国会で参考人として招致された官僚は、この条文に違反しているということになります。

 第3項では、公務員の選び方について、普通選挙を規定しています。これも、現代の視点では当たり前のことですが、戦前は当たり前ではありませんでした。ともかく、形の上では当たり前になっています。

 この点では、形の上だけでなく、実際の意味でも当たり前な選び方にすることが必要です。憲法のこの規定では、「普通選挙を保障する」としか規定されていませんが、これは、「正当な選挙によって、国民の意思を反映させることを保障する」という立法主旨があろうと思います。しかし、実際には、高級公務員たる自治体の首長を選ぶ際には、資金のあるなしが大きく影響するというゆがんだ選挙制度のために、民意が反映されにくくなっています。これでは、憲法が泣きます。

 

第15条 公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。

2 すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。

3 公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。

4 すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない。

今こそ憲法 006

2018/05/13

 一万円札の人は、「天は人上に人を造らず、人の下に人を造らずといへり」と言っていますが、このように、人間はまったく平等で差は無く、まして不当に差別してはいけないということを宣言しているのが、第14条です。

 もっとも、福沢諭吉はその後「征韓論」を唱えて、朝鮮半島の人たちを差別的に扱っていますので、はたして上の言葉を真剣に考えていたのか疑問です。

 上の言葉は、「学問ノススメ」という冊子にある言葉なのですが、その後の主張を読めば少しわかるような気がします。その後に書かれてあるのは、「人の違いは、生まれつきにあるのでなくて、学問に励んだのか、学問に励まなかったのかにあるのだ」となっていますので、結局、人はそれぞれ違うのだ、平等ではないのだという主張になっているようです。

 現在でも、そうした考えはかなり蔓延しているのではないでしょうか。つまり、「人の違いは、努力したか努力してこなかったにあるから、収入が少なかったり暮らしに困っている人は努力が足りないのだ。だから、暮らしを良くしたければ自分で夫力すべきだ」と言うことになります。典型的な「自己責任」論です。

 この主張で決定的に欠けているのは、努力が実を結ばない人への配慮です。努力して成功した人に限って、「努力しさえすれば必ず成功する」と考え、それ以外のことを想像しません。だから、ちょっとした行き違いで不幸な目に遭った人に対しても、「努力が足りない、自己責任だ」という冷たい目で見ることになるのではないでしょうか。

 また、人間であるからには、傍目で見て努力していないように見えても、誰もが必死になって生きているわけですから、みんなそれぞれ努力しているのではないかとも思います。

 さらに進めると、努力しようが努力しまいと、そんなことに関係なく、人はみんなそれぞれ尊重され、平等であるべきです。

 憲法の規定とはちょっと主旨がずれたようですが、第14条は、そうした努力の有無にかかわらずすべての人について、「法の下に平等であって、差別されない」ことを宣言しているはずです。日本人として誇るべき条文の一つであると思います。

 

第14条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

2 華族その他の貴族の制度は、これを認めない。

3 栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。

今こそ憲法 005

2018/05/18

 次の第13条には、「幸福追求権」が明記されています。この権利については、当初、憲法に具体的に定められている権利の総称にすぎないとして具体的権利を認めないとする学説があったらしいのですが、現在では具体的な権利を認める説が通説とのことです。例えば、肖像権などがそのひとつです。個々具体的な権利については、これからもその社会の状況に応じて広く認められるようになるものが出てくるのではないかと思います。つまり、その時代や社会の変化に応じて、広く世論として認められる権利が、この条文でしっかりと保障されていると言えます。

 したがって、重要なことは、「憲法は時代遅れだ」という主張への明確な反論にも成っていると言うことです。よく、「今の憲法は70年以上も前につくられたものであって、当時は社会に認知されていなかった諸権利について書かれていないから、時代遅れであって、改正が必要だ」と言いながら、憲法の根本理念である平和条項までも変えようとする人がいますが、まったくそうではないということです。あの時代に書かれた憲法であっても、将来、いろいろな権利が主張され、認められるようになるであろうことをすでに予測し、それに対応できるようにしているのです。まったくすばらしい条項です。

 これからは、「今の憲法は時代遅れ」という人がいたら、「未来を予測して書かれている第13条を、まず読んでください」と反論しましょう。

第13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

今こそ憲法 004

2018/05/11

第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

 この条文は、なんと深みのある条文ではないかと思います。自らが前条で宣言した「国民に保障する自由及び権利」についてすら、「国民の不断の努力によって保持しなければならない」というあたり、うっかり考えれば「無責任」ともとらえられかねない言い方ですが、その実、権力者は常に国民の自由と権利を奪おうとするものであることを喝破しつつ、そうした策動に対して国民は常に油断せずに対峙しなくてはならないということを指摘しているわけで、たった一文で社会構造の奥深さを物語る条文であると思わざるを得ません。

 たぶん、この条文は、それまでの明治憲法下で弾圧されてきた日本国民の歴史を深く考え、その体制のもとに形作られてきたい国家体制も、表面的にはそれなりの体裁を整えてきたことにも深い反省が込められていることと思います。

 今、この条文が指し示していること、つまり、「自由も権利も国民の不断の努力で保持すべき」ということが、かつてなく重要に成っているのでは無いかと思います。

 “国民の選挙で選ばれた”ことになっている安倍内閣が、国民の権利や自由を奪おうとしているわけですから、ある意味でこの条文が指摘している「国民の不断の努力」が不足していたのかもしれません。

 しかし、まだ間に合います。例えば、3000万人署名などの「国民の不断の努力」で、「自由と権利」を奪おうとする安倍政権などの勢力を打破して、「自由と権利を保持」すべき時こそ、“今”です。

今こそ憲法 003

2018/05/08

 いよいよ第3章の「国民の権利及び義務」です。

 この章は、まさに憲法の根幹とも言える章ではないかと思います。戦前は、国民のあらゆる権利が制限され、基本的人権という概念すら否定されていましたので、その反省の下に書き上げられたのではないかと思う点は、9条とも共通しています。

 第10条は、国民としての要件です。ここでいう法律とは、国籍法などを示しているのでしょうか。国籍法にはいろいろな問題があることが指摘されており、諸外国で常識になっていることが日本だけ取り入れられていない点があることなどがあるようです。また、付随する「戸籍」制度は、日本独特の制度のようで、「無くても何にも困らない制度」であると言われています。無くても困らないどころか、あることによって不当な差別の材料になっているとさえ言われています。そのうち、無くなることでしょう。

 さて、肝は第11条。この条文は、読む人を感動させずにはいません。法律の条文を読んで泣けるなんてことはあまりないかもしれませんが、歴史が少しでもわかる人は、泣かずにはおられないのではないかと、率直に思います。

 

第10条 日本国民たる要件は、法律でこれを定める。

 

第11条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

今こそ憲法 002

2018/05/06

 日本国憲法の第1章は天皇に関する条項ですので、国のあり方に関する実質的な最初の条文がこの「戦争放棄」の第2章です。しかも、第2章の条項は「9条」のみ。それだけ、この“戦争の放棄”を大事に思い、大切な条文であるとしていることがわかります。

 憲法のほぼ最初にこのようにわざわざ特に強調するように記述している条文をこうしてあらためて見ると、憲法制定当時の日本国民がいかにあの戦争を忌まわしいものとしてとらえ、いかに本気で不戦を誓ったかが身にしみます。戦後12年もたってから生まれた私には、“忌まわしい戦争”といってもその体験に基づいた実感はありませんが、想像力を働かせると、“何が何でも繰り返してはならない”という血の叫びが聞こえてくるようです。

 その、“何が何でも繰り返してはならない”という血の叫びを今こそ生かして、“安倍改憲NO!”のうねりを大きくしなくてはと思います。

第2章 戦争の放棄

第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

今こそ憲法 001

2018/05 /05

 安倍暴走政権のトンデモ政治で、憲法が未曾有(“みぞうゆう”ではありません、“みぞう”です。)の危機に直面しています。

 そんな今だからこそ、憲法の全条文をあらためて読み返して、私たちの生活をどうのように守ってくれているのかを再確認したいと思います。憲法学者ではないのでかなり素人解釈ですが、自分なりに考えたいと思います。

 まずは「第1章 天皇」です。よく、「日本国憲法はアメリカに押しつけられたもので、日本人が自主的に創ったものではない」と主張する向きがありますが、この第1章だけはその批判が少~しだけ当たっているのかもしれません。

 そもそも、あの忌まわしい戦争が終わった時、その戦争を起こしたのは誰か、誰に責任があるのかが問われました。その中で、ドイツやイタリアなどは時の最高権力者が明確に断罪され、戦争責任もしっかりと問われました。ところが、日本だけは、そうなりませんでした。その背景には、その後のアメリカのアジア戦略があります。アメリカは戦後の冷戦下で、アジアをわが物にするために、日本をその足がかりにしようと企んだのです。そのためには、日本が完全に民主的な政治体制になってしまうと、アメリカ軍の基地を置いたり、アメリカの言いなりになったりというようなことができなくなるので、戦前のゆがんだ体制を一部温存しながら民主勢力の活躍を押さえ込もうとしたということを狙ったのです。その象徴が、天皇制の温存です。もちろん、それまでの絶対主義天皇制とは形も権力も異なりますが、以下の条文にもある通り、他の条文とは矛盾するような「世襲」だとか、まっとうな法律とは言えない「皇室典範」の規定を優先するだとかのゆがみが残っていると指摘されています。

 民主主義を徹底すれば、こうした特異な人間の存在を認めること自体、大きな矛盾ですが、それだけでなく、条文自体にあちこち矛盾があるのではないかと言われていることは、残念なことです。

 ま、現在の憲法は、全体としては非常に良いものであって、すべてを守っていくべきと思いますので、少々矛盾があっても、完全に守り、大切にしていこうと思いますが、将来的にはこの部分は改善の余地が大いにあるのではないかとも思います。

 また、最近になって、天皇が政権に利用され、憲法で定められた権能を逸脱した行為を求められているのではないかという指摘もあります。現天皇が生存中に退位したいという意向であることの背景に、こうした現政権からの「憲法逸脱の圧力」があるのではないかというのです。だとすれば、現天皇の心中は大変複雑のものでありましょう。同条するとともに、その圧力をかけているかもしれない現政権へは大きな怒りを感じます。

 とにかく、条文を見てみましょう。

第1条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。

第2条 皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。

第3条 天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。

第4条 天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。

2 天皇は、法律の定めるところにより、その国事に関する行為を委任することができる。

第5条 皇室典範の定めるところにより摂政を置くときは、摂政は、天皇の名でその国事に関する行為を行ふ。この場合には、前条第一項の規定を準用する。

第6条 天皇は、国会の指名に基いて、内閣総理大臣を任命する。

2 天皇は、内閣の指名に基いて、最高裁判所の長たる裁判官を任命する。

第7条 天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。

一 憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること。

二 国会を召集すること。

三 衆議院を解散すること。

四 国会議員の総選挙の施行を公示すること。

五 国務大臣及び法律の定めるその他の官吏の任免並びに全権委任状及び大使及び公使の信任状を認証すること。

六 大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を認証すること。

七 栄典を授与すること。

八 批准書及び法律の定めるその他の外交文書を認証すること。

九 外国の大使及び公使を接受すること。

十 儀式を行ふこと。

第8条 皇室に財産を譲り渡し、又は皇室が、財産を譲り受け、若しくは賜与することは、国会の議決に基かなければならない。